僕にとって冬という季節は、特別好きでもないし嫌いでもない。
 あまりにも寒くなければそれでいい――と、昔は思っていたはずなのに、彼女と一緒に暮らすようになってからは冬も悪くない季節だと考えるようになっていた。
 なぜなら、寒さを理由にして普段以上にくっつく機会が増えたとしても、彼女には嫌がられるどころか大体喜んでもらえるから。

「おはよう一紀くん。ね、そろそろ起きない?」
「おはようさん……ん、もうちょっと、」
「もう。寒いのは私も分かるけど」

 そんなに抱きしめられたら苦しいよ、と笑っている彼女の体温がどうにも手放し難く、寝起きの僕がまず行うのは彼女の肩に顔を埋めること。
 本格的に冬が来る前に、二人ともおそろいで買っておいたパジャマのふわふわとした触り心地も実に気分を良くさせるものだけれど。こうすることで、髪や身体から伝わる彼女の仄かな香りに何よりも心が安らいでいく。

「一紀くん、朝からくすぐったい」
「仕方ないでしょ。冬の朝は、冷え込むものなんだし」
「確かにね。でも、今頑張って起きてくれたら昨夜の美味しかったシチューがもう一回、今度は朝ご飯として食べられるよ?それに、焼き立てのトーストも付けちゃう」
「……君がそこまで言うんだったら、起きようかな。ちょっと、名残惜しいけど」
「ふふっ。顔を洗った後、ついでに眠気覚ましのコーヒーも入れてもらえると助かります」
「ん、わかった」

 今日は二人とも休日で、せっかくだから気が済むまで彼女を抱きしめていたかった気持ちもあったものの空腹には勝てず、早々に諦めた僕は彼女から離れていったん洗面所へ向かう。その後、お願いされていたとおりに二人分のコーヒーを入れていると、彼女も温めたシチューとトーストを持ってきてくれて。同じテーブルに着いた僕らはいただきます、と口にしてから朝ご飯を食べはじめた。

「はあ……寒い分、あったかいものを食べると元気が出るね」
「そうかも。それに、冬に君がつくってくれたシチューを食べるのも、結構贅沢な気がする」
「ええ?それは流石に大袈裟なんじゃない?ごく普通のシチューなのに」

 鈍感な彼女は知る由もないのかもしれないが、学生時代から僕以外にも彼女に思いを寄せていた男はそれなりに多くいて。僕を含め、彼らにとって君の手料理は喉から手が出るほどに欲しいものだったんだよ――ということを、敢えて自分の心の中だけで呟く。
 高校を卒業した後も、相変わらず魅力的な彼女はよく人を惹きつけていたが、今こうして一緒に住んでいる僕には当然他の男を彼女に近寄らせる気が微塵もなかったから。

「ところでさん。これからどこか、出かける予定でもある?」
「ん~、……そういう一紀くんは?」
「僕の方は特に。今日はくもりで冷え込むみたいだし、サーフィンはまた天気がいい別の日にでもする予定。それで、もし行きたいところがあるなら君に付き合おうかな、と思って」

 一緒に暮らすようになって良くなった点は、起きた時と眠る時、どちらも彼女の目に最初に映るのが僕であることの他に目的地まで同行できるようになったことがある。
 彼女と待ち合わせをするのも決して楽しくないわけではないが、やはり家を出てからも一緒にいられる分、僕の見ていないところで彼女がナンパされるような機会が減ったのは安心感が大きかった。

「それなら、お昼のランチも兼ねて映画館に行ってみない?ちょうど今月から始まって宣伝されていたSF映画、一紀くんと観にいけたらいいなあ、って思っていたところだったの」
「ああ、最近CMの多いあの映画か……僕も気になっていたし、いいよ。その案で行こう」
「よかった。一紀くん、ありがとう」

 はにかんだ彼女のまっすぐな笑顔につられて、自然と僕も笑みを浮かべる。
 これが一人だったなら、あるいは今朝のかじかむような寒さと多少の人混みに辟易としていたかもしれないが、彼女と一緒というだけで既に楽しくなりそうだと考えている辺り、僕も昔に比べてだいぶ変わったなと思う。

「どういたしまして。そうと決まれば、ご飯を食べた後は出かける準備だね。さっきも言ったけど今日は寒くなるみたいだし、しっかり防寒対策しておかないと」
「うん。マフラーとニットキャップは着けていくとして……手袋、はどうしようかなあ」
「?なんでそこで手袋だけ迷うの、」
「それはもちろん、一紀くんと手を繋ぎたいから」

 ――だって、一紀くんの大きいてのひらに包まれているとすごく安心するの。冬だったらなおさら、ああ、大事にされているなあ、って実感できて嬉しくなるんだよ。知らなかった?

 未だ温かいコーヒーに口をつけながら、にこにこと笑ってとんでもないことを宣言してくれた彼女に思わず顔が熱くなる。

(僕だって、小さくて柔らかい君の手を繋いでいると幸せな気持ちになっているけれど。それはそれとして、)

「はあ、……さんってば。ほんと、僕の扱いが上手いよね」
「ん?……どういうこと?」
「なんでもないよ。とりあえず、念のために手袋も持っていったらいいんじゃない?いざという時は僕の腕にくっついてもらったら迷子にならないだろうし、暖も取れるでしょ」
「ふふっ、それもそうだね。私も迷子になるつもりはないけれど、一紀くん、今日も頼りにしています」

 とぼけた顔で首を傾げていた彼女に溜め息を吐くのも、これで何度目になるのやら。
 でも、……そんな彼女だからこそ惹かれた僕は、彼女とともに時を重ねることを後悔なんてしてやらないのだ。これまでも、そしてこれからの未来においても。








「今日の映画、最高だったね!」
「うん。設定自体凝っていたし、音楽や色彩表現、エンディングまでの余韻もなかなか良かった。正直、僕もしばらくは忘れられないかも」

 宣伝の多い話題作でもあった影響か、二人とも身支度を調えてから向かった映画館はそれなりに混雑していたがしっかり鑑賞できた後。ランチのために入った喫茶店で、僕らは早速映画についての感想を語りあっていた。

「今日映画館が混んでいたの、もしかしたらあの映画を気に入ったリピーターさんたちもいたからかな?結構長い期間上映しているみたいだし、機会があれば二回目を観にいくのも楽しそうだね」
「なるほど、最初に観た時には見過ごしていた部分に気付く可能性もあるのか……確かに君の言うとおり、その面白さからはまっている人たちもいそうだな」

 そうこうしている内に、事前に注文していたランチプレートが運ばれてきたので食べようとした矢先。とあるおかずを発見して固まった僕を見て、すぐに原因を察した彼女からは微笑ましい視線を向けられてしまう。

「……私の唐揚げ、いくつかあげるから一紀くんの麻婆茄子もらってもいい?」
「……、お願いします」
「ふふっ。はーい」

 メニューに載っている写真を見た際、色合いからてっきり麻婆豆腐だろう、と安易に判断したのがいけなかったのか。まさかのナスも含まれていたことに少なからずショックを受けた僕を差し置いて、彼女の手によりお互いのおかずの一部が交換される。
 何年経とうがナスだけはナシ、と思っている僕に今更呆れるでもなく、すっかり慣れた様子の彼女に救われるのも何度目になるのか分からなかったが、渋々箸を進めていると突然目の前に黄色い玉子焼きが差し出された。

「えっ。何?」
「この玉子焼き、美味しかったから一紀くんにも是非食べてみてほしくて」

 遠慮はいらないよ。さあ、召し上がれ!
 ――なんて、副音声が思わず聞こえてきそうなほどにこにこしている彼女は、ここが家ではなくて喫茶店であることをうっかり忘れているのではないだろうか。
 そう思った僕は内心焦ったが、幸い忙しそうにしている店員は未だ僕らの様子に気付いておらず、近くに他の客がいないことも確認してから差し出された玉子焼きを咀嚼する。

「ん、」
「中にね、紅生姜が入っているみたい。ちょっとぴりっとするけど、美味しいでしょ」
「うん、……意外と、美味しい」
「私も初めて食べたけど、今度自分でもつくってみようかなあ。あ、それで上手くできたら、次に一紀くんのお弁当をつくる時にでも入れてみるね」

 週に一度、もしくは二度ほどお弁当をつくって持たせてくれることもある彼女の明るい提案に、俯きかけていた僕の心は容易く上向きになる。
 一人のままだったなら不機嫌になっていたこのランチでさえ、彼女がいると楽しいひとときに変わったということの重要性を――おそらく、今なお美味しそうに麻婆茄子を食べている本人は気にしてすらいないのだろうけれど。

さん、いつもお弁当つくってくれてありがとう。その、……紅生姜入りの玉子焼き、期待して待ってるから」
「ふふ。どういたしまして。まずは、練習から頑張ってみるね」

 和やかな昼のひとときが過ぎていく中、改めて僕は彼女との日常を愛おしく思っていた。








 そうして、楽しい時間が過ぎていくのはいつもあっという間で。
 予想していたとおり寒さが増してきた冬風に吹かれながら、早々に夕飯の買い出しも終えた僕らは夕暮れに染まった帰り道を並んで歩く。

「やっぱり、この時期は日が暮れてくると寒くなるね」
「ほんとにね。スーパーも混みはじめていたし、皆考えていることは同じみたい」
「ふふ。今日の夜はおでんだからあったまるだろうけれど、一緒に梅酒でも飲んでみる?」
「いいね。俄然夕飯が楽しみになってきたよ」

 たわいもない会話を交わす僕らの吐息がどちらも白く溶けていく中、マフラーとニットキャップを身に着けた彼女は僕と手を繋いで楽しそうに笑っていた。
 帰る前にやっぱり手袋もしておいたら、と一度だけ伝えてみたが、僕の体温を感じたいからという可愛い理由でやんわりと断られてしまったため、結局僕も手袋はせずに彼女の手から伝わる温もりを受け入れている。
 何も言わずとも、気付けばお互いの指先が相手を愛おしむように絡みあう。
 それはかつて高校生だった頃の僕らには、きっと二人とも恥ずかしくてできなかった手の繋ぎ方だった。

「一紀くん」
「うん?どうかした、」

 さん、と彼女の名前を呼ぶ前に、立ち止まった彼女が背伸びをしたかと思えば一瞬頬にキスされる。

「……ちょっと。ここ、まだ外なんだけど?」
「うん。でも、一紀くんの横顔を見ていたらしたくなっちゃったの」

 子どもみたいなことを言ってきた彼女にほんの少しだけ呆れつつ、恋人だからこそ為せる彼女からのスキンシップに内心浮かれた僕は無言で歩くペースを早める。

「わあっ、一紀くん?」

 驚いた彼女が転んでしまわない程度に早歩きをして、ようやく家まで辿り着いた直後。
 待ちきれなかった僕は、先ほどの反撃として彼女の唇を深く啄んだ。

「んっ、」
「……、やっぱり、君のこの蕩けた顔。他の人には見せたくないな」
「と、とろけたって……えっ、今の私、どんな顔しているの?」

 思う存分口づけを重ねて、ようやく解放した後には完全に真っ赤になっていた彼女が今日初めて動揺する様子に心がほぐれる。
 そう心配しなくても、僕以外に見せるつもりは毛頭ないので安心してほしいところだけれど。

「それは当然。僕のことが大好きで、愛しくてたまりません、っていう顔」
「……!」
「何年君と一緒に過ごしてきたと思っているの。それに、僕も君を愛しているってこと、これまでもたくさん伝えてきたんだから。そこまで恥ずかしがる必要もないでしょう」
「ううっ……そ、それはそうなんだけど。改めて、直接一紀くんから言葉にされると、やっぱり照れずにはいられないというか、」

 必死に両手で顔を隠そうと試みている彼女の、柔い身体ごと抱きしめた僕は敢えて耳元で囁きかける。

「ふふっ。さん、僕の声も大好きだもんね?それもよく知ってるよ」
「だっ、だから一紀くん、耳は……!」
「弱いって知っているから、こうしているんだよ。ほんと、僕のことが大好きな君って可愛い……ね、あともう少しだけ、このままでいさせて?」

 この分だと今夜の夕飯が遅くなってしまうのはお互いに分かりきっていたが、結論として、僕に弱い彼女が頷いてくれたのはもはや言うまでもなかった。